平成25年3月31日(No5946) 妻の忍耐と理解
妻の忍耐と理解
わが家の暮らしについてあらためて考えると、これは家庭というものではないと実感することが多い。ただし家庭とは何か、どんな暮らしを言うのか、明快な答えを持っている訳ではない。高齢になると仕事を離れて夫婦が助け合ってゆったり暮らすというイメージはある。わが家ではそんな欠片は露ほどもない。向き合って食事することも会話することもない。
どうしてそんな暮らしになったのか考えてみると、すべてが己のわがままに帰する。余程のことがない限り、朝は午前5時半に自宅を出る。広島にいる限り例外はない。帰宅するのは大抵0時前後。それから妻の手を煩わして夕食を終え、そして入浴。はがきがあれば書いて床に就く。ハガキの枚数によって就寝時間は異なる。枚数が多ければ眠る時間は短い。
やりたいことを何でもやっているから、並みの家庭とは異なる暮らしとなっている。それが無事平穏で過ごせるのは、妻の忍耐と理解かなと考える。ただし、本人に確かめたことはない。大抵妻と行を共にするのは詫びの気持ちから。新年は例年ホテルで3日間過ごす。その間は昼夜兼行で、年賀状を書き続けているから、妻サービスには程遠い。反省ばかり。
今年はさらに多用が予測されるので、3月30~31の2日間、詫びる思いで東京の桜見物を計画した。ところが天の悪戯で桜は上野も隅田川も散ってしまった。東京・鎌倉の二日間だが、出来るだけのサービスをしたいと考えている。何年もこうした生活が続くと慣れで不感症になってしまう。せめて詫びながら「ありがとう」だけは言い続けないと罰が当たる。